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榧(かや)は日本海軍の駆逐艦、松型駆逐艦の11番艦として舞鶴海軍工廠で建造された。艦名は樅型駆逐艦の1艦に続いて2代目。 太平洋戦争では礼号作戦に参加、戦後は復員輸送に従事、のちにソ連に引き渡された。 == 艦歴 == 就役後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(高間完少将・海軍兵学校41期)に編入。瀬戸内海に回航され訓練に従事する。10月25日には「梅」「桃」「樅」とともに、台湾への輸送作戦を行う空母「龍鳳」「海鷹」を護衛して佐世保を出撃し、10月27日に基隆に到着〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.5,31,41〕。輸送任務を終えた後は10月30日に基隆を出港して佐世保を経由し、11月2日に呉に帰投した〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.33,42,51,52〕。11月25日付で第三十一戦隊(江戸兵太郎少将・海兵40期)第四十三駆逐隊に編入〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.59〕。同じ11月25日、昭南に向かうヒ83船団を「海鷹」、「檜」「樅」などとともに護衛して門司を出撃〔『第一海上護衛隊戦時日誌』pp.52 、駒宮, 297ページ〕。そのままマニラ方面へ進出するも、12月14日に第38任務部隊(ジョン・S・マケイン・シニア中将)の艦載機の空襲を受け、「杉」および「樫」とともにマニラを脱出することとなる〔『第五艦隊戦時日誌』C08030019900, pp.37〕。マニラ脱出後は、ひとまず南沙諸島で様子を伺う事となった。12月15日、アメリカ軍はミンドロ島に上陸を開始してミンドロ島の戦いが始まる。これを受け、南西方面艦隊司令長官大川内傳七中将(海兵37期)は、南沙諸島に待機中の駆逐艦によるミンドロ島サンホセへの殴り込み作戦を立案する〔『第五艦隊戦時日誌』C08030019900, pp.39〕。計画では「マニラへ向かう航路を取りつつカラミアン諸島を背景にサンホセに突入し、突入後はマニラに帰投する」という作戦だった〔『第五艦隊戦時日誌』C08030019900, pp.39,40〕。しかし、射撃装置に狂いが生じており、艦も若干の浸水があった。「樫」は給水ポンプの復旧の見込みが立たず、速力は21ノットを出すのがやっとだった。「杉」は多号作戦での損傷が癒えていなかった〔『第五艦隊戦時日誌』C08030019900, pp.42,43,44〕。さらに、突入作戦を指揮する予定の第四十三駆逐隊司令が肺結核で倒れて入院する事態となった〔木俣, 591ページ〕。このため、突入作戦は一時棚上げとなった〔『第五艦隊戦時日誌』C08030019900, pp.44〕。その後、サンジャックに回航されて第二遊撃部隊(志摩清英中将・海兵39期)に合流する。 大川内中将は12月20日、第二水雷戦隊(木村昌福少将・海兵41期)を中心としてサンホセへの突入作戦を行うよう志摩中将に命令した〔『第五艦隊戦時日誌』C08030019900, pp.45〕。「樫」とともにタンカー「日栄丸」(日東汽船、10,020トン)を護衛しつつカムラン湾に進出〔『礼号作戦戦闘詳報』pp.8〕。参加艦艇の集結を待ち、12月24日にカムラン湾を出撃して殴りこみ作戦「礼号作戦」が開始された。ミンドロ島が目前に迫った12月26日夕刻、挺身部隊はミンドロ島に進出したばかりの第5空軍機の空襲を受ける。21時30分には、機銃掃射後の機体の引き起こしのタイミングを誤った〔木俣, 596ページ〕P-38が後マストに当たり、根本から折れる被害が出た〔『礼号作戦戦闘詳報』pp.12〕。空襲と魚雷艇の襲撃を受けつつもサンホセに接近し、マンガリン湾に潜む4隻のリバティ船に対して、「霞」「樫」とともに魚雷を発射した〔『礼号作戦戦闘詳報』pp.68 、木俣『日本水雷戦史』601、602ページ〕。いずれの魚雷であるかは判然としないが、魚雷は貨物船ジェームズ・H・ブリーステッド (''SS James H. Breasted'') に命中して着底させた〔The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II 、木俣『日本水雷戦史』601、602ページ〕。作戦を通じ、後マスト折損の他に機銃掃射によって缶の一つが使用不能となり、火災が発生して最大速力が20ノットに下がる損傷を受け、戦死者4名、負傷者17名を出した〔『礼号作戦戦闘詳報』pp.68,69〕。作戦からの帰途、12月28日にアメリカ潜水艦デイス (''USS Dace, SS-247'') の雷撃により沈没した給糧艦「野埼」の乗員を救助した〔木俣『日本水雷戦史』606ページ〕。12月29日11時35分、カムラン湾に帰投した〔『礼号作戦戦闘詳報』pp.64〕。 1945年(昭和20年)1月1日、サンジャックを出港して香港経由で1月7日に高雄に到着〔『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074800, pp.8,9,28,29,31〕。高雄での応急修理の後、搭載弾薬を他の艦艇に融通して1月9日に高雄を出港し、1月13日に舞鶴に帰投〔『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074800, pp.9,31,33,37〕。1月31日付で第四十三駆逐隊の司令駆逐艦となる〔『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, pp.14〕。3月初頭まで舞鶴海軍工廠で修理を行った後に呉に回航され、3月15日まで呉海軍工廠で残りの修理を受ける〔『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, pp.6,7,8,23〕。3月18日からは「槇」とともに戦艦「大和」の警戒に就き〔『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, pp.29〕、4月6日から7日の大和特攻では、「花月」(第三十一戦隊旗艦)および「槇」とともに、前路掃討隊として豊後水道出口まで艦隊に随伴した〔雨倉孝之「松型駆逐艦長の奮戦記」『松型駆逐艦』104ページ〕。その後は燃料の欠乏のため、6月27日から山口県屋代島の日見海岸に疎開し、そのまま終戦を迎えた。10月5日除籍。 12月1日に特別輸送艦に指定され、復員輸送に従事、終了後は賠償艦として1947年(昭和22年)7月5日にナホトカでソ連に引渡された。同日、「屹然たる、意志の固い」という意味のヴォレヴォーイ(ロシア語:ヴァリヴォーイ)に改称され、7月7日、艦隊水雷艇(駆逐艦のこと)として第5艦隊へ編入された。1949年2月14日には予備役にまわされた。6月17日には除籍され、武装解除の上で標的艦に類別を変更、名称も「第23標的艦」を意味するTsL-23(ツェエール・ドヴァーッツァチ・トリー)に改められた。1953年4月23日には太平洋艦隊に編入された。 1958年6月10日には暖房船()に変更され、名称もOT-61(オテー・シヂスャート・アヂーン)となった。1959年8月1日付けで退役し、解体のため資金資産局への引き渡された。1959年9月2日には海軍より除籍された。ヴォレヴォーイの艦名は、30-bis号計画型駆逐艦に受け継がれた。''ヴァリヴォーイ)に改称され、7月7日、艦隊水雷艇(駆逐艦のこと)として第5艦隊へ編入された。1949年2月14日には予備役にまわされた。6月17日には除籍され、武装解除の上で標的艦に類別を変更、名称も「第23標的艦」を意味するTsL-23(ツェエール・ドヴァーッツァチ・トリー)に改められた。1953年4月23日には太平洋艦隊に編入された。 1958年6月10日には暖房船()に変更され、名称もOT-61(オテー・シヂスャート・アヂーン)となった。1959年8月1日付けで退役し、解体のため資金資産局への引き渡された。1959年9月2日には海軍より除籍された。ヴォレヴォーイの艦名は、30-bis号計画型駆逐艦に受け継がれた。''ツェエール・ドヴァーッツァチ・トリー)に改められた。1953年4月23日には太平洋艦隊に編入された。 1958年6月10日には暖房船()に変更され、名称もOT-61(オテー・シヂスャート・アヂーン)となった。1959年8月1日付けで退役し、解体のため資金資産局への引き渡された。1959年9月2日には海軍より除籍された。ヴォレヴォーイの艦名は、30-bis号計画型駆逐艦に受け継がれた。''オテー・シヂスャート・アヂーン)となった。1959年8月1日付けで退役し、解体のため資金資産局への引き渡された。1959年9月2日には海軍より除籍された。ヴォレヴォーイの艦名は、30-bis号計画型駆逐艦に受け継がれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「榧 (松型駆逐艦)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Japanese destroyer Kaya (1944) 」があります。 スポンサード リンク
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